くだらないこと

今年に入ってから、
というか 恐らく気づいていなかっただけで 
もうずっと。 


何度も何度も 
同じところで立ち止まって 
ぶつかっているような感覚。 



時には1日の間に何度も。 
時には忘れた頃にいきなり。 



元々感情の振れ幅が大きいことは 
わかっているし、 
そこが自分の良い所であり、 
悪い所でもあると思っている。 



どうにも一般的な反応よりも 
過剰反応することが多いらしい。 
私なりの普通であっても 
他者の大半からそう見えているのであれば 
それはもう、そうなのだろうと思う。 
それを悪いと思ったこともなかったけれども 
ここへ来て直さなければならないのでは? 
と思わされることもあったのは確か。 
そこを良いとされていると 
『信じていた』のに、そうでないとされた 
その時、私の中から『信頼』という言葉は消える。









何を話したいかと言うと
もうずっと。
思い返せば何年前か。
高校2年生あたりが恐らく。



その頃から何度もぶつかったこと。
端的に言えば
私は大事なものほど大事に出来ない。
具体的に話せば
大事に思う人のことほど信頼できない
ということ。


なにがどうしてそうなってしまうのか。
大事に大事に大事にしていても
ふとした瞬間であったり
なんてことない一瞬のことで
全て消えてしまう。
与えてくれた笑顔や愛情、言葉、行動が
まるで嘘だったかのように思えてしまう。

挙句の果てには
どうにもいかなくて自ら手放す。
もはやパターン化しているといっても
過言ではない。


『一緒にいると安心する
とは言ってもらえるのに、
だからずっと一緒にいようとは
絶対に言ってもらえない』

これが事実。
として過ごしました。

私所詮その程度でしか価値のないもので
そばにある分には邪魔にならないが
持って歩くほどに大事ではないというもの。
そう解釈していました。

そのこと自体に疑問を抱いたことは
ありませんでした。
私だもの、そんなものでしょ。と。
私は人に心底愛されるほど
相手に何もできていないし、
そんな価値ある人格でないと。









一時はその根本を払拭したいが為に、
調べたりだとか
思い出したくもない過去を掘り起こし
向き合ってみたりと
自分なりに行動した。



結果、
私は未だにぶつかっているのだから
効果はないに等しい。


もう、いい加減にしたい。
一喜一憂し、馬鹿みたいに
同じことを繰り返すことに
一体何の意味があるのか。
大事な人、たった一人を信頼できず、
挙句の果てに切り捨てるだなんて
なんてくだらないこと、失礼なことを
繰り返しているのか。




私は何なのか。



以前に行き当たったのは
『見捨てられ不安』というもの。
今回行き当たったものと
さして変わりもないのかもしれない。
今回に関しては『愛着障害』というらしい。
読めば私は以下に該当するのでは?と。




・不安型  

表情の変化に敏感で、素早く読み取るものの、
怒りの表情と誤解することが多い。  

「受け入れられているか」
「嫌われていないか」を重視し、
愛着不安の表れとして過剰な気遣いを繰り返す。  

「愛されたい」と強く望み、
拒絶されることを極端に恐れるあまり、
相手に迎合してしまう傾向が強い。  

また、
自分自身を愛される資格がないと思い込み、
それ故に特定のパートナーを常に求め、  
恋愛モードになりやすいのも特徴。
パートナーと距離が保たれている間は、
サービス精神旺盛で心地よい接し方をするが、
親密になるほど自分とパートナーとの
境界線が曖昧になり、
依存対象と見なしてしまいがちである。  

不満や苦痛を訴え、
激しい言動を繰り返す背景には、
「自分を疎かにされた」という被害感に苛まれている。  

さらに、養育者やパートナーに対し、
肯定的な態度と否定的な態度が
強く併存する両価的な傾向が強い。  

期待や賞賛に対しても、嬉しい反面、
期待を裏切らないことに神経をすり減らし、
プレッシャーやストレスを抱えやすい。 







見つけ読んだ際に
言い当てられている気分になりました。
誤りは一つもないのではないかと思う。

何かしらのこのこと名前をつけることは
できるのだと思う。
気持ちの問題なんて
当事者の思いたいように思える。

もしかすると
引用文章もそうであってほしいと
私が願っているのかもしれない。

何かしらの名前をつけることで
安心感があるから。
逃れられるような気がするから。
具体的対策を見つけやすいから。

正当な理由がどれかなんて
検討もつきませんがね。











ただ、改善として
いくか見ても確実に同じことが書いてあって。
安心感と信頼を得ること。
というのも他力本願ではなく
自ら作り出し行くこと。

具体的に何を行うべきかというと
自分に自信をもつこと
期待をしすぎないこと
素直に受け入れること




確かに私は私に自信がない。
まるでない。
仕事や関わりの薄い人に対しては
驚く程、自信が持てるときがあるが
大事な人と関わる上では消滅している。


冷静に思えば、
良し悪しは別としても
そこまでする!?
そこまで考える!?
というようなところまで尽くすこともある。
それはもちろん
喜ばせたいから、助けたいから、
というような思いがぜんていにあるわけで。
一般以上かと言われるとわからないけれど
よくやるほうではないかと思いたい。

ヴィジュアルを思っても
決して適当にはしていないし、
仕事柄、服装や髪型やメイクは
詳しいつもりで
キレイにするよう努力している。

特別可愛かったり
特別キレイという顔立ちではないけれど
それなりに見られるよう努力している。






冷静に考えれば
私はもう少し自身の行動や努力を
認めてあげるべきで、
自信を持ってもいいはず。


どん底まで落ちているときは
責め立てても仕方ないとしたいが。









過度に期待しない。
これに関しては難しい。
わりとドリーミーな方ではあるし、
自分の欲求には忠実。

こうならないかな、
と考える事柄に対して
ならなかった場合の考え方が良くない。
所詮私だし。という。

どうせ、結局、
という前置きがくる。
自信のなさに繋がっていると思う。



期待をしてしまうことはよくある。
期待が外れることもよくある。
期待しても無駄だった、ではなく
期待が過度だった、という解釈に変えていかなくては。







素直に受け入れること。
これが難関。


自信のない私に、価値のそこまでない私に
そんなことが起こり得るわけがない!
という気持ちがいつも隣り合わせ。

そもそも一緒に過ごしてくれること自体…!
までいってしまう。

人間、やりたくなくて
しなくていいことを
わざわざする人はいない。
嫌いなものを
わざわざ食べる人もいない。
つまらないことを
わざわざやりに行く人もいない。


いくらでも嘘をついて
回避できることを
そうしていない、
それが何よりの事実。

私が自信を持っていいところ。




私だって
乗り気のしないお誘いは
理由をつけて断る。
何なら文面で済ませる。


多少極論かもしれないけれど
そうされていない以上
受け入れられていると言っても
いいのではないかと。
















大事な人を大事にしたい。
心から信頼したい。してほしい。

そのためにも意識改革を。
していかなくては。。。。。






というくだらないこと